17歳でスペインへ旅立った寺尾少年が見たもの
ーー17歳の時にスペインに放浪の旅に出たとおっしゃっていましたが、そのきっかけはなんですか?
寺尾:父の教育がすべての原点です。小さい頃から「人と同じことはするな」と常に言われ続け、「常識なんか信じるな」と教え込まれてきました。だから普通に学校に通っていること、その行為自体が、家の中ではカッコいいことではなかったんですよ。みんなと同じことをするのは、「お前ダサくない?」っていう価値観の家だったんです。
ーーご兄弟はいらっしゃるんですか?
寺尾:弟がいますが、弟もやっぱり高校に行かず、北海道の私塾に通って、その後、ノルウェーの学校に入学しました。同じように育てられているので、どうしてもイレギュラーな生き方になってしまうんですよ。
ーー通常の教育だと、学校をドロップアウトした時点で、ネガティブなことと捉えられがちじゃないですか?
寺尾:普通はそうですね。でも、家ではむしろ自分で生き方を決めるために、学校を辞めることは、むしろポジティブな行為と捉えられていたんです。
ーーとりあえず、敷かれたレールに載らないというよりも、道は自分で切り開
くものだったわけですね。
寺尾:実は14歳でお袋が亡くなりまして、その影響も大きかったと思うんですよ。人はいつか死んでしまうから、思い立った時にやらないと後悔する! という想いがあって。しかも、小さい頃からの教育方針もあったので、普通のことやってモタモタしていると、それだけで人生終わっちゃうと強く感じたんです。常に何かを成し遂げなければならないという強迫観念のようなものが強かったんですよね。
ーーただ、闇雲に学校を辞めなくてもいいと思うのですが。学校行きながらで
もやりたいことってできるのではないでしょうか。
寺尾:いや、ちゃんと学校を辞めるきっかけはあったんですよ。高校2年生の
時に、進路を文系か理系どちらに進むか選択させられますよね? あのアンケート用紙が回って来て、将来どうしたいかを決める時に、これで自分の可能性が狭まってしまう! これは絶対に書いてはいけないって直感的に思ったんです。これに書き入れるぐらいだったら、学校なんて辞めた方がいいと思って。
突発的に退学を決めたものの、さて、どうしたものかと立ち止まって考えた寺尾氏。当然、翌日から自分は何をすべきか考え出す。父親も学校を辞めたことはポジティブに考えてくれたものの、家でぼーっとさせてくれる人ではなく、じゃあ、どうするんだ? とプレッシャーをかけてくる。その時にヘミングウェイが好きだったという理由から、スペインへの放浪の旅に出る。
ーー学校を辞めてから数カ月経った時に、次の行動に移ったわけですね。
寺尾:当時、ヘミングウェイの小説が大好きだったので、スペインに行ってみようかなって考えて旅立ちました。なんとなく綺麗そうだし、そういう景色を見てみたいなと漠然と思いまして。それに当時は、多くがアメリカを目指す時代だった。みんなと一緒は嫌だったという思いもあったので。
ーーそれに対してお父さんはなんとおっしゃっていたんですか?
寺尾:行ってこいと言われました。ただ、小さい頃から父に言われていた「何のために生きるのかよく考えろ」という言葉も噛み締めました。
ーーどういうことですか?
寺尾:自分が小学校3年生か4年生の時に、父に「お前、この意味が分かるか?」って、ある本を渡されたんです。それが、ヘミングウェイの短編集で、その中に『キリマンジャロの雪』っていう短編があったんですよ。キリマンジャロの伝説というか言い伝えが載っていて、その内容が「キリマンジャロの山頂付近には、ヒョウの死体がある。ヒョウは何故そこに登って行ったのか誰にも分からない」というものでした。
ーー確かにそんな寒いところに登る必要はないですよね?
寺尾:結局、父が伝えたかったことは、「自分は何故生きているのかをよく考
えて、自分なりの目標を見つけて、ちゃんとそこに向かって自分の脚で進め」
ということだったと思うんですよね。
ーー誰かに言われるのではなく。
寺尾:そういう教育方針だったから、自分が他の人と違って、レールを外れたという感覚は全くなかったんです。むしろ、みんなが同じ方向に進んでいる、その道の方が曲がって見えた印象なんですよ。
クリエイティブ魂と反逆精神みたいな教育方針が合わさり、17歳の時にスペインのアンダルシア地方のロンダという街にたどり着いた寺尾氏。「BALMUDA The Toaster」の記者発表時に、ロンダで食べたパンの味が忘れられず、それがトースター開発の原点にもなっていると話していた。当時はどのように過ごしていたのか?
ーースペインではどうやって過ごしていたのですか?
寺尾:一番長くいた場所が、スペイン南部、アンダルシア地方のロ
ンダという街です。そこを拠点にして、モロッコ、フランスやイタリアにも行きました。ロンダの街には、一番長く住んでいましたね。友達もたくさんできましたから。
ーーその時に食べたパンの味、その感動をトースターで多くの人に届けたいと
おっしゃっていましたけど、当時、今みたいな家電をつくるきっかけあったのでしょうか?
寺尾:あの旅で見たものが自分に影響していて、「美しい」という感覚のベースになっていると思います。そこで吸った空気、見た光……。自分はこういう色が好きとか、こういう形が好きというのは、あの頃の体験で形作られたかなって思いますね。
ーースペインから、再び日本に帰ろうと思ったきっかけは?
寺尾:1年経った時に、自分のなかで「この旅は上がったな」って思ったんですよ。なぜ生きているのか、その答えを見つけるために行ったんですよね。特に言葉にはならなかったったけど、前よりはるかに分かりかけた気がしたから、帰国を決意しました。
ーー日本に帰ってやることを決めたからですか?
寺尾:いいえ、そこまでは決めていなかったです。だけど、修業はもういいかな
って。早く何かをやって活躍したいと思う瞬間があったんですよね。だから帰
国したんです。
ーー帰国しても本当に何もないところからの始まりですよね。
寺尾:何もないから、逆になんでもできるじゃないですか。目指すことは自由
ですよね。何をしてもいいんだと思って。小説家になろうとして、いろいろ文
章を書いたり、詩人のように詩を書いてみたりはしてましたけど、年齢的にそ
れは少し渋すぎる職業かもなって。まだ10代ですからね。
ーーそこでいわゆるロックの道に目覚めたのですか?
寺尾:若かったし、とりあえずロックスターにでもなっておくかって。スペインでブルース・スプリングスティーンの『Born to Run』という曲を聴いたのも大きかった。それでギターを買ったんです。旅に出た後、独学で音楽を始めてミュージシャンになったり、その後、急にモノづくりですか? っていうギャップをみなさん感じるらしいんですけど、自分はまったく感じないんです。自分にとっては、ただのまっすぐ
な一本道なんです。クリエイティブな表現をするためのツールが変わっただけですから。
ーーなにかをつくることが、息を吸うのと変わらないくらいの行為ですか?
寺尾:「考え出す」のが自然なことなんですよ。絵を描くとか、工作すると
か、詩を書くとか、曲を書くとか。今は商品の企画とか。いろんなものをクリ
エイトし続けていますが、これは本質的な行動だと思うんです。これを止められたら、多分死んでしまうと思います。それがたまたま今は、ハードウエアやテクノロジーになっているだけ。そもそも今でも、いつか小説家になろうという夢を持っているわけで。いまだに諦めていませんし、小説だって書いてますよ。
(取材・文/滝田勝紀)
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