ーー伊藤さんのいわゆる“よそ者”体験は、実はその生まれにあるんじゃないかなって思っています。タイに生まれて、タイで育った日本人というバックボーン自体が、実は“よそ者”として生き抜く術を最初に体験したところではないかと思うのですが。
伊藤:おっしゃるように、僕はタイに生まて、その後もタイで育った期間が相当長いです。一般的には海外駐在で行く方もたくさんいますが、ほとんどは2~3年周期で帰国します。だから、常に同じ境遇であるはずの日本人の友達も数年スパンでいなくなる経験をずっとしていたんですよ。僕はいつも人を迎えて、送り出す側ばかり。
そういう意味では、いくら家族がいるとはいえ、本当に孤独ですよね。かつ、ローカルのタイの友達はたくさんいましたけど、やっぱり外国人ですから。同じアジア人でもやっぱり違います。ある意味、純粋な日本人ではないし、かといって住み続けているタイの人間でもありません。いつもどこか居場所がないと心の奥に感じながら生きていましたね。
ーー国籍は日本だとしても、割り切れるものではないですよね。特に子どもの頃は。
伊藤:大学生くらいまでは、そんな思いを抱えていましたね。中学校まで多くいた仲間も、高校からは義務教育が終わるので、多くが日本の学校に戻りました。でも、僕はタイに残って、タイのインターナショナルスクールに通いました。その時点で多くの日本人の友達とは違う道を選択したわけです。
英語は得意でもなかったので、すべて英語で行われる授業を受けること自体、本当に厳しかったです。同じ学校の欧米から来た子たちから見れば、“なんで英語できないの?”となるわけですよ。それだけでも、完全に劣等生扱いじゃないですか。こういった場合、大人よりも子どもの方が残酷だったりしますからね。今の我々の年代ともなると、他国の言葉が得意でない方に会ったとしても、“まあ、仕方ないな”と配慮しますが、子どもたちはストレートですから。
そこで僕は考えました。壁の花(クラスの主流になれず、端っこに座っている)となって、自分の存在価値を「無(ゼロ)」にするのを善しとするか、頑張って変えるか、どちらを選択するか……。somebodyとして生きるか、nobodyに成り下がるか。僕はsomebodyになることを選びました。僕の生き方の原点は、おそらくそこにあるのだと思います。
ーーでも、中学卒業時に日本に戻るという選択肢もあったのでは? なぜタイに残ったのでしょうか?
伊藤:日本の学校に行くとしたら全寮制のところじゃないといけない。親はタイに住んでいますから。それだけで選択肢がギュッと絞られるんです。それに、ネイティブレベルと比べれば全然劣ってはいましたが、英語は嫌いじゃなかったので。
小学校~中学校には、インターナショナルスクールで野球のリトルリーグに所属していたので、言葉の重要性は分かっていました。だから、高校はそのまま上に上がるという難しい道を選択したんでしょうね。
ーーその後、結局、大学も日本ではなくアメリカに渡るわけじゃないですか。そこまでずっと“よそ者”人生。やっぱり日本ではなかったんですか?
伊藤:ここまでタイで生きてしまうと、僕からすると、この時点で日本に戻ること自体が、母国ではありながら“留学”になっていまいます。入学時期の問題もあります。日本の大学は4月始まりですが、海外は9月〜6月で1年です。日本の大学に行くとなると、その時点で既に半年遅れです。浪人してないのに浪人生扱い。その段階で進学=アメリカの大学だと決めました。
ーーアメリカ、オレゴンの大学に入学するわけですが、ずっと野球をしていた影響も大きかったですよね。タイのナショナルチームに選抜されるほどだったわけですし、いわゆるベースボールへの憧れというのも、アメリカへ行った理由では?
伊藤:タイではたしかにナショナルチームのメンバーでしたけど、タイの野球人口はそれほど多くないので。ただ、父に『巨人の星』の星一徹並みのスパルタ式で叩き込まれましたからね。家にバッティングゲージとナイター設備完備で、毎晩打ち込みです。ですから、アメリカでも大学レベルなら通用すると思っていました。
ところが、現実は違いましたね。身長が190cmで体重が120kg、なおかつ走れる冷蔵庫みたいなプレイヤーがいるわけですよ。力だけでプレーするものではないのが野球だとはいえ、さすがにこれは無理かな、と。自分の計算では「私立の学校で学費も高い」=「野球留学で来る人も少ない」という読みだったんですけど、実は真逆で。カリフォルニアの野球の名門校には行けないけど、野球だけで食べていきたいという人がいっぱいいて、これは厳しいなと。
当然レギュラー取りは難しい。それでもなんとかしようと、慣れない遠投ばかりしていたら、ついに肩を故障して。もうDH(指名打者:守備には付かないバッター)しか生き残る道はなく。
ーー大学の時点でDHしかできないって、致命的ですね。
伊藤:本当に致命的。それでも僕はバッティングは好きでしたし、多少自信があったんです。長打力もそこそこあったので。ただ、やっぱりアメリカは違いました。それまで打っていた球と重さがまったく違うんです。アメリカで野球をやりながら大学生活を充実させるという道は完全に断たれましたよね。
せっかくアメリカに行くという選択をしたのに、所詮、子どものリサーチ力なんて、そんなものです。西海岸なら野球ができそうだし、2年間は野球を楽しんで、3~4年は、さらに大きな州立大学行ってビジネスが学べるなって。
ーーその後の経歴や今の伊藤さんを見ると、とても信じられないですね。
伊藤:人生で最初の挫折です。肩が故障してしまったため、ボールが投げられない。それでも、2年生になってからは日本人や韓国人を集めて、草野球チームを作りました。大学の野球部との対戦でファーストを守っていた時に、無理してホームに駆け込むランナーをファーストから刺したんです。そこでバチーンって何かが切れて、もう痛くて、その後はずっとベンチですよ。どうなっちゃうんだろう、自分の腕は……って。それがアメリカでの野球を最終的に諦めた理由ですね。
ーーそこで挫折しながらも、次の道へと進みますよね。
伊藤:ビジネスをやるか、経営者になるか、車のデザイナーになるか。ちょうど将来の方向性についても悩んでいた時期でした。やっぱり車は大好きだったので、1年生時に2学期を休学して、描き貯めたデザインのポートフォリオ(作品集)を抱えて、LAのACCD(Art Center College of Design)に行きました。でも、そこで学校の説明を聞いている時に、他の人たちのポートフォリオを見て、“これはかなわない”と。そこでまた僕の夢は一瞬に立ち消えて(笑)。所詮は「好き」だけでやる自分の力を現実世界でハッキリと見せつけられて、一気に情熱が冷めてしまっただけの話なんですけどね。
ーー夢や目標を追い求めれば叶うものだって、言われますけど、伊藤さんの場合はそういう選択肢をどんどん消していく時代があったのですね。とはいえ、すぐに状況を把握し、決断し、次へと踏み出すのは、伊藤さんがこれまでステップアップしてきた片鱗が伺えますね。
伊藤:野球選手とデザイナーは確かに消滅しましたが、キャリアなんて、正直分かりませんでした。時代の流れもありますし、どうなるかなんて神のみぞ知るというか。けれども、努力だけは怠らないようにしていました。若さから、心はぐらぐら揺れ動くこともありましたが。本当にビジネスがやりたいのか? グラフィックデザインや工業デザインをやりたいんじゃなかったのか?と。でも、本当はネイティブ・アメリカン考古学に興味もあったり……とか(笑)。
ーー最終的にビジネスの道に進もうと決めたのはなぜですか?
伊藤:好きな教授との出会いですね。3年生からどの大学へ進学すべきか、リサーチしていたんです。1学期の間だけ、それまで通っていた地元オレゴンのコンコーディア大学以外に、ポートランド州立大学など、実は3校を掛け持ちし比較していたんです。今でもそうですが、やはりしっかりと俎上に上げて、自分の目で見て調べないと納得できないタイプなのです。
その頃にヴァージス先生というビジネスの先生と出会ったんです。この先生の授業はすごく面白かったんです。それまで勉強なんて苦痛でしかないと思っていた自分にとっては目から鱗。ビジネスってこうやるんだ、マネジメントってこうなんだ、マーケティングってこうなんだ、と。基礎から面白く学ぶ経験を得ることが出来ました。それで思ったんです。わざわざ知らない大学に転校するよりも、コンコーディア大学で出会った先生に学ぶのがいいんじゃないかと。最後は直感で決めました。
ーーやっぱり最後の決断はface to faceなんですね。それは今のビジネスマンとしての伊藤さんの行動や決断にも通じますね。
伊藤:でなければ信じられないですから。アセスメント(査定)は自分でやらないと納得いかないのは、その頃からなのでしょうね。この後の2年間で方向性が決まってしまうのに、あえて最も無名の大学を自信をもって選びましたからね。今でもそうですが、ニッチ戦略を必ず取るんですよ。自分のキャリアでも、商品展開でも。
ニッチこそもののあり方だと思っていて、ニッチが爆発的に売れたらそれが最終的にマスになると確信しているんです。ニッチというのは、確実にそれを求める層を狙って行けば、一定数の数字が必ず出る。その層が広がったらマスになるだけで。そもそもマスを狙いに行って、当たるわけがないというのが僕の持論。それをビジネスの世界では、所属する先々の会社で実践してきたのです。
(取材・文/滝田勝紀)
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