やっぱりクルマが好き。自動車メーカーに就職しよう!
--そもそも多田さんが「スポーツカーを作りたい」とお考えになられたのは、いつ頃でしょうか?
多田:自動車メーカーに入社した時から、ずっとそう思っていました。いや、正確にいうと、入る前から、ですね。小学生の頃から、クルマを作る仕事がしたかったんです。当時の私にとってクルマといえば、イコール、スポーツカーやレーシングカーでした。
『少年サンデー』とか『少年マガジン』といった、いわゆる漫画誌を読んだ記憶がほとんどないんですよ。当時からクルマ雑誌を読んでいました。『AUTOSPORT』や『Motor Fan』は、今も創刊号を持っているくらいですから、よほどクルマ好きだったんでしょうね。
当時、モータースポーツに関する情報は本当に少なくて、『AUTOSPORT』が唯一の情報源といってもいいほどでした。ちょうど(往年の名レーサー)生沢 徹さんが、ホンダ「S800」でヨーロッパのレースに挑戦し始めた頃だったので、その記事を心ときめかせながら読んでいました。
--小学生の頃にモータースポーツ好きになられたきっかけは、なんだったのでしょうか?
多田:父がクルマ好きだったからだと思います。我が家の最初のマイカーは軽自動車だったのですが、その後、トヨタから「カローラ」(「カローラ 1100」の時代)が発売されたのを機に、乗り換えたんです。父はそのカローラで、いきなりラリーを始めたんですよ!
当時はまだ、ラリーの黎明期。ライセンスなどもきちんとしたものはありませんでした。そんな時代に、モービル石油が全国規模のラリーを開催したんです。各地で予選をやり、最後に全国チャンピオンを決めるという、当時としては画期的なイベントで、優勝賞金は確か100万円とか150万円でした。
そんなイベントの告知が、全国紙の一面広告に出たんですよ。それを見たクルマ好きの父は、迷わずエントリー。ラリーってなんなのか、よく分からないまま、優勝賞金のすごさに惹かれてね。各地の予選にはプロドライバーがたくさん出ていたのですが、私たちが住んでいた四国には速いドライバーが少なかったこともあり、たまたま父が優勝したんですよ。訳が分からず走っていたら、なぜかうまくいって(苦笑)。当時は、今のように速く走るラリーというよりも、時間やコースを計算して走るラリーが主流だったことも、奏功したようですね。
--多田さんも応援に行かれていたのですか?
多田:予選が始まってすぐの頃は、母がナビゲーターを務めていました。けれど、走り始めて1時間ほど経った時、母が急に気持ち悪くなって…。クルマ酔いですね。なので以降は、私が代役としてナビゲーターを務めました(笑)。
父は四国代表として全国大会へ行くことが決まり、もうわが家は大騒ぎになりました。ところが父は会社を休むことができず、結局、全国大会への参加を辞退したんです。けれど、偶然とはいえ、そんな出来事が起こってしまったものだから、父はそれ以降もラリーにのめり込んでしまったんです。
ただし、母は苦い思い出があるので、以降も私が代役として、父のナビゲーターを務めることになりました。中学校の1年生か2年生の頃ですね。当時はまだ、JAF公認のラリーなんてほとんどない時代でしたから、免許が必要だとか、ライセンスを求められるといったことはほとんどなかったんです。大らかな時代でした。
なので私は、『AUTOSPORT』などを読みまくり、ラリーってどんな競技なのかを一生懸命勉強しました。当時の四国には、大学の自動車部が主催するラリーイベントがあったのですが、そこで父が優勝すると、今度はナビゲーターである私の方が「これは面白い!」とのめり込んでいったのです。
--ラリー以外のモータースポーツへも関心はお持ちだったのですか?
多田:もちろん。第2回日本グランプリが開催された鈴鹿サーキットへ連れていってもらった時は、初めて実際にレースを見て、本当にワクワクしました。そして、中学2年の時に父の仕事の関係で愛知へ引っ越した時は「鈴鹿サーキットが近くなった!」と大喜びしたものです。
でも、高校に入ると、周りにクルマ好きの友人がいなかったこともあり、モータースポーツ熱が冷めてしまいました。お約束のようにバンドブームに乗り、音楽三昧の日々を送っていましたね。私も夢中になって、ドラムをたたいたり、ベースを弾いたりしていました。
大学の時も同じような毎日で、当時はクルマへの興味をほとんど失っていました。卒業したら、ヤマハやローランドに入りたいなぁ、と漠然と思っていたのですが、結局、入れてもらえませんでしたね。
そこでふと思ったんですよ。「やっぱり私はクルマが好き。だから、自動車メーカーに入ろう!」とひらめいたんです。
ただ、実際には紆余曲折があり、すんなりとトヨタに入ったのではなく、自らソフト会社を立ち上げるなどしたのですが、それも数年で傾いてしまいました。その時はもう、妻も子供もいましたから、一家の将来はどうなる? とお先真っ暗な状況に追い込まれましたね。すると、そんな私の姿を見かねた大学の同期が声を掛けてくれたのです。彼が就職していたトヨタも、当時、コンピュータ開発を推進してので「ウチに来ないか?」と。
--そうやって入社されたトヨタ自動車では、どんな業務を担当されたのでしょうか。
多田:最初は、電子実験部に配属されました。当時は、クルマに搭載するコンピュータの数が増えていた時代。ですが、逆にコンピュータ同士が干渉し、エンジンが止まるといった問題が起きていたのです。そういった問題を解析し、改修する仕事を担当していました。
でも、ずっと同じことの繰り返しだったので、上司にテストコースのあるトヨタの東富士研究所に行かせてくれ、と、何年も異動願いを出し続けたんです。すると、3〜4年くらい経った時、突然、東富士への異動が決まりました。そこから、トヨタ自動車での私の人生が開けた感じですね。
--なぜ、突然の異動が実現したのでしょうか?
多田:ABSへのニーズが高まっていた頃で、ABSに関するソフトウェアの開発を、私が担当することになったからです。当時、ABSの開発といえば、冬に開発部隊が全員、北海道に行き、3カ月くらいテストコースにこもりっきりになる、というのが恒例でした。東富士の実験部隊も現地入りし、昼間、コースで習得したデータを元に、翌朝までに私たちがプログラムを変更、翌日のテストに備えるという毎日でした。
最初は、技術者やテストドライバーの意見を元に、プログラム開発を行っていたのですが、自分でも時々走ってみると「もっとこうした方がいいな」とアイデアが次々浮かんできたのです。なので「自分で走り、プログラムも開発した方が、よっぽど効率的だ」といったら、「運転もできないやつが何をいっているんだ」と、実験部隊に怒られました。それでも懲りずにアピールしていたら、そこまでいうならやってみろ、ということになり、異動することになったのです。
実は偶然、実験部隊の中に、本社に戻って電子関係の仕事に携わりたい、と希望された方がいらっしゃったようです。電子関係の人間が東富士の実験部に異動できる機会はなかなかないので、本当にラッキーでした。
--電子部品を開発するために、テストドライブを行うという立場だったのでしょうか?
多田:ABSの開発をメインで担当する、実験ドライバーみたいな役目でした。当時のABSって、雪道ではそれなりに効果があるんですが、例えば、サーキットなどへ持っていくと、逆に危ないといわれていました。ABS付きのクルマでサーキットへ行くと、まずやることは、ABSのヒューズを抜くこと。実際、テストドライバーやジャーナリストの方々も、皆さん、そうおっしゃっていましたね。
でも私は、ABSをずっと研究していくうちに「それはおかしい」と感じていました。一流のプロドライバーがサーキットを走ったとしても、有効に働くABSを作れるはずだ、と確信していたんです。そこで上司に“スポーツABS”の開発に関する企画書を提案しました。自分たち一生懸命に開発したメカが、サーキットへ行った途端、ヒューズを抜かれて機能しなくなっているなんて、屈辱的だと思ってね。これからは絶対、スポーツ走行時にもABSが必要だといわれるようにしたい…。その思いを実現するために、全国のサーキットを転戦していいですか? という提案をしたのです。
すると上司は「これ、ただ遊びに行きたいだけじゃないの?」と半分笑いながら、ゴーサインを出してくれたのです。サーキットで運転の講習を行う、いわゆる“トップガン”と呼ばれるトップドライバーの養成部隊に、私も同行させてもらえました。それから1年間、日本全国のサーキットを、ABSの計測機器を抱えて転戦する生活が始まりました。
でも、せっかく同行するのだから私も運転させて欲しい、と頼むと「じゃあ、訓練が終わった後にオマケで」といって、時々練習させてくれました。そうやってデータを採りながら、トップドライバーはどのようにブレーキを踏んでいるかを解析しているうちに、ABSはどんな制御を行えばいいのかが分かってきたんです。
そうやって蓄積したノウハウからスポーツABSを開発し、レースに参戦している「MR2」に付けてレーシングドライバーに試してもらったところ「雨のレースならABS付きの方が断然速い!」というお墨付きをもらったんです。その後、MR2の市販車にもスポーツABSを搭載したのですが、以降、サーキットでABSをカットすることは、非常識になったんです。
--スポーツABSの開発後は、どのような開発に携われたのですか?
多田:スポーツABSの開発を終えると、今度はヨーロッパへ駐在することになりました。当時、私のいた部署から、定期的にヨーロッパへ駐在員を送っていたのです。1992年からの3年間、私はドイツ・ケルンの隣町、ケルペンにいました。あのミハエル・シューマッハーの生まれ故郷です。ニュルブルクリンクも近かったので、しょっちゅうレース観戦や走りに行っていましたね。走行チケットは、日本円で1000円しないくらいでしたし、自由に走らせてもらえました。
--駐在員としてのミッションはなんだったのでしょうか?
多田:現地では、日本から送られたいろいろなテストカーを、走りの完成度を高めるためにテストしています。私は、日本からテスト部隊が来た時は、彼らといっしょに、ドイツだけでなく、フランスやイタリアといったヨーロッパ中を、2週間くらいかけてテストして回りました。また、テスト部隊がいない時も、クルマの方向性やテストの狙いによってどんな道を走るのがいいのか、あらかじめ調べるために、年がら年中、ヨーロッパ中を走り回っていました。それこそ、商用車からスポーツカーまで、年間50万kmくらい走ったんじゃないですかね。そうやって問題点を洗い出し、日本の開発現場へフィードバックするというのが、私のミッションでした。その現地での3年間が「クルマの走りは道が創る!」ということを、身を持って痛感させてくれたんです。
--他社のクルマとの比較試乗なども実施されたのでしょうか?
多田:もちろんです。新しいクルマがリリースされたら、必ずレンタカーを借りたり、購入したりして、ほとんどのクルマに乗っていました。当時、現地でドライブしたポルシェ「944ターボ」は、「こんなクルマ、トヨタには一生作れない」と思わせるくらい、まさに高い壁でした。なぜこんなにいいクルマが作れるのだろう、と驚かされましたね。
なので、後に86を発売した際、とあるドイツの自動車誌が、86と944ターボの比較記事を載せてくれた時は感慨深かったですね。実はこの2台、パッケージなどが似ているんですよ。誌面の論調は「なぜポルシェではなく、アジアのトヨタにこんなにいいスポーツカーを作られてしまったのか? ポルシェは庶民を見捨て遠いところへ行ってしまった。もっと944ターボの時代のクルマ作りを取り戻して欲しい」という内容でしたね。完全に86は当て馬で、ポルシェに対するラブコールだったのですが、逆にそこまでいってもらえて、本当にうれしかった記憶があります。(最終回Part.5に続く)
(文/ブンタ、写真/グラブ)
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