コンタクトレンズを試作する上で役に立ったのは、持っていた情熱だけではありません。実は恭一は旋盤技術を習得しており、試作品も自分で旋盤を操作して仕上げていたのです。
「旋盤技術は学徒動員で身につけたものです。まだ14歳でしたが、器用さを見込まれて、腕のいい職人さんに旋盤技術を教え込まれたそうです。旋盤に関しては本当に深い知識を持っており、その後、コンタクトレンズを量産することになった時も、機械メーカーと調整しながら、旋盤も自分で作っているんです」
そんな情熱で寝食を忘れて突っ走り、わずか3ヶ月後には、最初のプラスチック製角膜コンタクトレンズのプロトタイプを完成させてしまいました。
実は当時、眼科医の間でもコンタクトレンズの開発は進められていたのですが、「強角膜レンズ」というもので、恭一の独自研究していたものよりも一回り大きく、素材も違うものでした。
「眼科医と違い専門的な知識がなかったので、白目まで覆わなくて黒目の部分だけで十分だと直感的に思ったそうです。また実物も見ていなかったので、先入観にとらわれず独自の形態を思いつくことになりました」
素材も大きさも違う恭一の試作品は、医師たちに「こんなのコンタクトレンズじゃない!」と言われてしまいます。しかし、コンタクトレンズを欲しがっていた患者さんに試してもらったところ…
「強角膜レンズは白目まで覆う大きいものなので装着すると痛みがあり、利用者の悩みにもなっていたようです。試作品は黒めの部分だけを覆う小さなものなので『こっちの方が痛くない』と評判は上々で、その後のコンタクトレンズの主流は強角膜レンズではなく、小さなタイプの角膜レンズになっていきました」
独自の研究が、業界の流れを変えてしまったのでした。
しかも当時の恭一は、弱冠20歳だったということも驚き!
「戦後すぐの時代は物がなく、何でも自分で工夫して作っていたということから、その延長線上だったのかもしれません。田中会長は “学識がないからできた” と申しておりますが…」
素材から機械まですべて自分で作ってしまう不屈の精神は、真似できません…!